芙露蘭の髪が、潮風にやさしくなびいていた。あの南国の夕暮れが、今でも頭から離れない。

太陽が水平線へ沈みゆくオレンジ色の空の下、彼女は白砂のビーチをカラフルなパレオを揺らしながら駆けていた。素足で波打ち際を蹴るたび、細かいしぶきが宙に舞い、光にきらめく姿。

陽に照らされて輝く銀色の髪。サイドで結んだポニーテールの先に、小さな黒い花の髪飾りが揺れている。彼女の瞳は南国の海よりも深い青で。

「眩しいね」

サングラスをそっと外し、ふいに俺のほうを振り返ってそう言った。夕陽を背にして笑う彼女の顔は、なぜだか少し寂しそうで、でも眩しいほどに美しかった。胸の奥がぎゅっとなった。


飛行機の中、彼女はずっと窓の外を見つめていた。何かを考えているようで、でも何も語らず、俺も話しかける勇気が出なかった。隣にいるのに、遠い。物理的な距離じゃなく、心の距離に触れるのが怖かった。だから、ただ黙って彼女の横顔を見ていた。

そして、帰ってきてから数日。彼女は俺の家の隣に住んでいるのに、一度も顔を見ていない。あの夏の日々が夢だったんじゃないかと、時々思う。カーテン越しに彼女の部屋の明かりを何度も確認するたび、胸が少しだけ痛くなった。

あの日の芙露蘭は、まるでこの世界から少し離れた場所に行ってしまったようだった。もう手が届かない、そんな存在に――。

「ピンポーン」

不意に鳴ったチャイムに心臓が跳ねる。誰だろう、と思いながらドアスコープを覗いた瞬間、鼓動が一段と速くなった。そこに立っていたのは、芙露蘭だった。

白いシャツに、淡いベージュのスカート。風になびく髪には、あのときと同じ黒い花飾り。笑うでもなく、泣くでもなく、彼女は静かに、俺の方を見ていた。

何も言わず、小さく手を振った。

彼女はそっと笑った。

目が合う。それだけで、あの夏の日々が確かに存在していたことを実感する。終わったと思っていた物語に、まだ続きがあると知らせるような、そんな微笑みだった。

俺は静かにドアを開けた。彼女も一歩だけ、こちらへと歩み寄る。

ただ並んで立つ。それだけで胸がいっぱいになる。心にずっと空いていた穴が、少しずつ埋まっていくのを感じた。

芙露蘭がもう一度だけ笑った。

まるで、「ね、まだ夏は終わらせないでしょ？」と、言葉にせず、でも確かにそう伝えてくれるように。