バス停から続く道は、思ったより静かだった。
キャスターの車輪の音だけが、アスファルトの上でかすかに転がる。

両手にスーツケース。
その重さは、荷物よりもむしろ、これまでの年月の重さに近い。

空は、暮れかけの桃色から群青へと、ゆっくり溶けていた。
高く伸びる電線が、まるで過去と今をつなぐ糸みたいに頭上で交差している。

「……遅くなったな」

小さくつぶやく声は、風に混ざって誰にも届かない。
最後にここを歩いたのは、あの日だった。

言い争いをして、扉を乱暴に閉めて、振り返らないまま町を出た。

遠くに、うっすら灯りのついた家々が見える。
その並びのどこかに、自分の「帰る場所」がまだあるのだろうか。

胸の奥が、少し痛む。

ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面には短いメッセージ。

——「気をつけて帰っておいで。」

指先が止まる。
それだけの言葉なのに、足取りが少し軽くなった。

夕焼けが背中を押す。
転がるスーツケースの音が、静かな道にやさしく響く。

やっと言える気がした。

「ただいま」を言うために、私はもう一度、この道を選んだ。